インテリア・発・かいご

池田真理子さん
インテリアコーディネーター・二級建築士・主婦・
マリコブランドのユニバーサルデザイナー・・・・・・
自らの介護経験を通し、インテリアコーディネターとして住環境と介護、床ずれ予防のあり方を提案しながら商品の開発、全国を講演して廻るスーパーウーマン。
有限会社 マリコ   
岡山県井原市東江原町972−1
●バリアフリー住宅
 
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段差のない住宅がバリアフリーと思われている。和室、洋室、廊下、水まわりと全て段差のない住宅が多くなった。機能を優先することは歴史や伝統を失うことでもある。四センチの敷居の上がり降り,この動作を繰り返すことが健康,機能維持に貢献していることを誰も言わない。新築したバリアフリー住宅に住みはじめた友人が漏らした言葉「明るくて便利になったけど,外出するとかえってつまずきやすくなったわ。」人はその動作を五感で感じ行動する。平坦な場所に一本の線を入れただけで立ち止まる。住宅は心や体を癒し休める場所であると同時に健康回復,維持に貢献しなければならない。便利は人の機能ばかりか心も失うことがある。住まいには心と体の健康維持を優先し不便も楽しむゆとりが欲しい。明日の健康を作る場所であって欲しい。



●あかり
 
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現代の住宅は「明るい家」が必須条件になっている。家庭は基準の照度を超えた明るい空間が多い。高齢者になると水晶体が濁ることから視力が落ち色の識別や明暗反応が困難になる。そこで一般的にはより明るい空間を要求される。しかし人は住空間でそれほどまでの明かりが必要なのだろうか。一番の明るさはお日様だ。昔話のお爺さんやお婆さんは昼間外で働き日が沈んだ家では薄暗い蝋燭や焚き火の炎で手仕事をして食事をした。その風景は心を癒す住空間には必要以上の照度は必要ないことを教えてくれていた。
人は母のお腹にいる時から暗闇で安息を学んだ。何もかも白日のもとにさらすことが必ずしも幸せでないように人の生活に照度の明暗、暗さの安息は必要である。それは機能以前心の休息のためである。人は目だけで見るのではなく心に目があり皮膚で体で見ることを忘れてはならない。時に暗さは心を癒す。あかりは上手にコントロ―ルしよう。






●椅子
 
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第二次大戦後公団住宅、アルミサッシの普及で日本の一般家庭の生活様式は一変した。茶の間が応接間、ダイニングルームとなり、座布団が消え椅子に変わった。楽と言う誘惑、便利、進化は反対に人の機能を奪う結果となっている。床に座ることと椅子に座ることの相違は運動量の違いに現れる。脚にかかる負荷、体全体の動作量は椅子に座ることで半減する。それが便利、楽と言う形となり一般家庭の生活に定着した。反面楽な生活は運動量の減少から体力の低下につながっていることも認識しなければならない。椅子生活は住環境に文化をもたらした感があるが田舎で座卓に座り、和室に寝具を上げ下ろしする生活を守り元気で田畑を耕す高齢者の生きかたが便利とかけ離れていることを心の片隅に残して欲しい。椅子は機能を失った者にとっては必需品であるが無かった生活が与えていた健康や運動量を評価しなければならない。便利は人の心と体を軟弱にする。






●こころ色


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人はこころに様々な色の入ったクレヨン箱を持っている。この世に生を受けた瞬間から生活環境、職業、経験、出会いと色を積み重ね増やして行く。たくさんのこころ色を持っているから泣いたり、怒ったり、笑ったり日々を謳歌し自分だけのキャンパスに人生という絵を画く。高齢者は赤ちゃんにたとえられることがあるがこころ色が違う。年を重ねる過程でクレヨン箱が透明になる人もあれば心に残した色の重さに押し潰されそうになる人もある。そんな高齢者をケアする場所に必要なものは何だろう。便利な介護用品と画一的な介護体制だけではこころ色は溶けない。キャンパスに描いた絵を共有できる過去のアルバム、家族、友人、仲間、同じこころ色を持つ人だけが溶かす事が出きる色もある。自分のこころ色を見つめることも大切だ。そして回りの人のこころ色を認めてあげることからコミュニケーションをはじめよう。貴方はどんなこころ色が好きですか?






● 窓

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住空間に置ける窓の役割は大きい。空気を入れ換える、光を取り込む、そして開放感。目に見える、形にできる以外のこころを癒すインテリこそ21世紀に求められる要素だ。窓は人の心にとってどれくらい必要であるか今一度窓の効用を胸に刻んで欲しい。採光と換気だけなら人工的に作り出すことは可能である。そして環境汚染が進む地球で将来の住空間がその方向で進むとしたらそれは人類の破滅を意味する。人の心は抑圧と開放、このバランスがとれている状態こそ健康。その身近な要素が窓である。窓をあける、光が差し込む、それは人の心に限りない開放感を与える。窓を閉める、覆う(窓装飾)ことで人は本能的な防衛と安心感を得る。日常の生活で人は開放と閉鎖を繰り返しこころのバランスを保っている。介護にはこころの窓を開けることも必要だ。窓を開け空気を入れ換え、光を入れる、はじめて人は溶け合える。閉まったままの窓には言葉も行為も通じない。






● 手すり

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数年前には住空間のコーディネイトの項目に手すりの存在感はなかった。介護市場が俄かに騒がしくなって以来手すりは脚光を浴びた。我が家の89歳になる義母は頼りない足取りでもなんとか自分の足で立ち、歩くことが出きる。階段での動作を見ていると最初に手すりを持つことで自分の体を移動している。彼女にとって物言わぬ手すりは移動のためのなくてはならないパートナーになっている。介護用品を選択する際に補助機能と便利機能は別であることを認識する必要がある。便利機能はともすれば現状の機能を退化させる恐れがある。静かな手すりの存在は義母にとって歩くと言う機能を維持するための貴重な存在だ。手すりがあることで歩くことを断念しない、歩くことに安心をもらっている。手すりは住空間にとってささやかな存在だが介護以前の住宅設備として認められる大切なツールとなる。介護生活は一般生活から見なおされなければならない。



● 炬燵

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炬燵は現在の住空間にとって不衛生であるというのが炬燵を無くした理由だった。寒さの解消に炬燵以外で充分足りていた。炬燵に座ることで動作を緩慢にすることは介護にとって否定すべき生活だったが義母の部屋に炬燵を出した。一日のほとんどをベッドで過ごす義母が大喜びした。足が温かい事もあるが家族が炬燵に集まりだしたからだ。足を暖める以外に義母の心も以前より温かくなったようだ。寂しさを和らげるために何をしたら良いのか考えていたが炬燵がこれほど効果があるとは思いもよらなかった。炬燵は不思議な存在だ。小さな空間に閉じ込められた暖かさには人を呼び戻す、人と人を結びつける力があり義母にとって過去の思い出があった。炬燵に座る生活で失敗は多くなった。それは介護にとって後退ではなく進歩のような気がする。普段に戻るそのためにもっとたくさんの失敗を受け入れろと炬燵は教えてくれた。炬燵は家具ではなくは生活だ。




● じゅうたん
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じゅうたんが一般家庭から消えようとしている。要因は健康生活での衛生面、床暖房の普及、ナチュラル嗜好でのフローリング等インテリア素材にも時代の流れのなか隆盛と淘汰の変遷は早い。高齢化社会におけるインテリア素材を考えるときじゅうたんの効用は大きいと思う。その1つに床のクッション性がある転んでも打身になる可能性を和らげる。次に暖房効果、じゅうたん1枚で断熱保温効果は倍増する。そして床にじゅうたんを敷くことで埃を吸収してくれる。衛生を重視するあまり床は無機質な素材やフローリングが増えたが表面が平坦で緻密なものほど埃の吸収率は悪く室内を遊泳する可能性は高い。じゅうたんは床面に集塵、掃除機で一挙に取り除くことが出きる。最後の効用はその素材と色の豊富さにある。足から伝わる素材の質感と色の効用は人の心を癒し、安らぎを与えてくれる。高齢化の住空間にじゅうたんは明るく楽しい住まい作りに貢献する。



● ベッド

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ベッドは介護の主役になっている。ベッドの生活は機能が衰えた者にとって立居降るまいを助けてくれる。ベッドの高さは立ちあがりを容易にしてくれる半面床より高い場所で寝ることは精神的な不安定も与る。日本人は夜寝具を準備することで一日の終わりと安息への準備をし、朝がきて押入れに収納することで一日の生活のけじめをつけていた。便利になること、楽になる事で失ったものはけじめと運動量である。それは人の心も体もベッドの生活に近づけ気がつかない間に機能の衰えを促進している。ベッドから離れる介護、日本人は日本人の背負った風習や先人の知恵をもっと生かすことで日本人らしい高齢者社会を築けないものだろうか。便利であるというだけでとり入れる様々な生活用品が機能を奪い寝たきりに近づけている現状もある。こうした一面も知った上で介護用品を選択し自分だけの生活スタイルと介護生活を作り上げることがこれからの課題だ。



● 観葉植物
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インテリアのプランをする際の仕上げは観葉植物だ。人のいない無機質な図面上の空間にそれぞれのパーツを結び付けてくれ引き立たせてくれる不思議な役目をしてくれる。自然の造詣と色はどのようなデザインや物にも溶けこみ、生きている色はどんなアーチストもかなわない。光を通す色、生きている形、それは単にインテリアのパーツとしてではなく人と共存することで多大な影響を与えてくれる。一緒に育ち成長する事でインテリアも深みを増して行く。清潔、動線、安全、効率と様々なキーワードで空間を構成しなければならない介護の空間に一本の花、一鉢の植物を取り入れることは目に見えないゆとりや安らぎを与えてくれる。無駄を省くことは正しくて必要なことだがこれからの生活に必要なのは無駄な空間やものではないだろうか。無駄を省くことで経済は成長を促進したが心のゆとりは無くそうとしている。介護は人類にとって一鉢の観葉植物である。





●杖
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テレビの黄門様が杖をついている姿を違和感なく見ている。介護や高齢と結びつける人は少ない。きっと権力があってお供がいて弱者と見ないからだろう。時には武器と変身する杖はヒーローになる。人が立つことを覚えた瞬間から2本の脚で体を支え生きることへの試練が始まる。一本の支えである杖は前に進む行為を補足する。歩き疲れた時杖は重宝する。杖は上半身を支えることを補うことで脚への負担を軽くして疲労を和らげてくれる。杖が介護用品であると言う認識を無くしたらもっと介護が世の中に溶けこみ身近になる。長い人生、年齢も体力も関係なく時には杖に頼る時間を作ることで人はもっとやさしくなれる気がする。一本の棒、それが杖である。杖を傘のようにどこの家庭にも常備したら杖はもっとおしゃれになり、杖に頼る生活に違和感なく溶け込める。介護は全ての人に共通の人生の季節だ。杖は季節の壁を取り除く大切な方法かもしれない。






●ことだま

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インテリアには目に見えない大切な要素がたくさんある。音、風、光、空間、その中で言葉ほど重要なものはない。言葉は生き物だ。言葉には魂が宿る。言葉1つで人は幸せになり心を病む、そして同じ言葉でも伝える相手によって心地よくもあり、悲しくもある。言霊(ことだま)の存在を忘れてはならない。人が触れ合えばたくさん許すことが出きるそれが愛かもしれない。しかし人の愛には限界がある、コップの水があふれるように受け止める事ができない時もあり、受け止める限界の季節がある。人がちからや人に与える愛が少なくなった時与えられる愛にも限界が来る。毎日の生活で人を明るくする言葉、人を幸せにする言葉、人に真実を告げる言葉を発することを心がける事は介護の季節を迎える準備だと思う。「おはよう。」「ありがとう。」言葉の魂はいつかめぐって自分に返ってくる。人類の平和は簡単に作ることが出きる。それは幸せな言霊が行き交う社会だ。                       






●紐

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紐というものが生活の中から消えようとしている。装飾のリボンになったり機械で自動的に締めるテープになった。結ぶことを知らない文化も近づいているかもしれない。一本の紐が築いてきた文化は大きい。便利やスピードは簡単に伝統や文化を見失う。体力が無くなってベッドでの起き上がりが困難になった義父が希望したことはベッドの足元に紐を結ぶことだった。古着の布を裂いたものを編んだ紐を取りつけると義父は起きあがる際に紐を両手で引っ張りながら必死で起きあがった。その姿に思わず手を貸して背中を押した。起きあがると言う動作を対等に協力してできた。紐は必ずも介護に有益な素材ではないかもしれないが義父の生活の知恵から出た方法だった。寝る生活を余儀なくされても自分で工夫する心を持つだけで回りを元気にさせる。今、義母のベッドに結んだ
紐を見るたびに一本の紐を大切にしたい気持とともに素朴な生活の心を教わる。






●ロボット

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21世紀高齢化社会に極光を浴び育とうとしているのがロボット産業だ。ロボットの原型に家電がある。掃除機、洗濯機、炊飯器等違和感なく日常生活に溶け込んでいる。人や動物の形をして自ら考え行動する機能を持つ機械がこれからの生活に溶け込む日常もそう遠くないはずである。人の欲望はとどまることを知らない。近未来の生活に言葉一つで動く生活が人の目指すロボット社会なのか。ロボット開発に関わる人達は純粋で夢を持つ優しい人達だ。高齢化を言訳に科学の発展を促進して欲しくない。人は気付かない。ロボット社会は人の便利を満足させ時間を生み未来社会を象徴するが人の絆を奪い、運動量を減らし益々軟弱な肉体を量産している。求めることを止める勇気は人にはない。便利、進歩、発達、正しいと思われる言葉に誰も疑問を持たない。介護の方法に正解はない。人が生きる過程で求めるものは科学や技術や進歩を優先させるロボット社会だろうか。






● 壁
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壁は静かだ。時には邪魔者扱いされる。人が住まうことで一番重要な存在、内と外を仕切り自然から身を守り心に安心感を与えるのが壁だ。人にはそれぞれ自分に合うテリトリーがある。畳一枚の広さが一番おちつく人もいれば何十畳という広さを要求する人もある。しかし壁なしでは生きていけない。人が無防備になる場所ほど壁を必要とする。トイレやお風呂が狭いのは単に物理的な面以外の安心感を与えられるからである。壁は人間の防衛本能を最初に満たしてくれる。介護の中での壁は頼もしい。手すりを付けることで支え歩く手助けをしてくれる。人の手より確実で頼もしい。仕切りとしてプライバシーを保護してくれる。絵を飾れば心を癒してくれる。そして叩けば耐えて憤懣を受け止めてくれる。動かない、主張しない、もの言わぬ壁は住まうことで最も重要な要素である。壁に
寄りかかると思わぬ力で跳ね返ってくる。それは人の命の存在感だと教えてくれる。



● 無駄
  
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インテリアは限られた予算とスペースで如何に効率を良くする、動線を短くし装飾する、常に無駄をなくすることで新しい空間の創造が最優先された。アイデアや工夫がもてはやされ無駄が削除された。空間の無駄は贅沢、動作の無駄は不便、時間の無駄は効率が悪い、どれを取っても否定的だ。無駄を省いた時間や空間で人々は新しい場所や時間を創造した。そこは家族と離れた家庭以外の場所だった。外に時間や場所を求めた家族は少しづつ心も離れ自分だけの時間を大切にして自由を楽しむようになった。家族のために自由を束縛されることが不自然な人間へと変化している。時間をかけて作る食卓は安価で買える。介護も施設やお金で解決できるようになった。生活にかける時間の無駄は生きることの応援歌だ。小さな無駄を受け入れることは大きな愛を生み無駄を楽しむ生活は家族の絆を確認する。家庭介護の時間が無駄な時間にならない社会でありたいものだ。




 食卓

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インテリアもテーブルコーディネイトまで発展して華やかな食卓が演出されるようになった。食器にこだわり花をあしらい食事に沢山の演出が入り楽しむことが出来るようになった。様々な小物も取り入れられランチョマットやテーブルライナー、ナプキン等日本の食卓に新しい文化ができたと言っても過言ではない。日本の食卓にはご飯と言う食文化の中での茶碗があった。茶碗だけは個人のものが決められていた。お食い初めから始まったその人だけの茶碗が家族の中での存在であり身代わりだった。お葬式に行われる茶碗割りの儀式は家族からの別れを意味するものではないだろうか。個人の茶碗にこめられた家族への思い。食卓を囲む仲間としての家族。ベッドでの生活を余儀なくされる生活になったとき、時には家族がそれぞれの茶碗をベッドにもちより食卓を作ることもどんなに豪華な食器や花に負けないコーディネートだ。食卓は心とともに移動する。




ペット

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義母は猫が嫌いだ。仏壇のお供えをひっくり返し、食卓の魚を盗んだ猫を元気な義母は追い掛け回して叱っていた。寝たきりの生活になっても猫が嫌いなことに変わりはない。ベッドに座って身の回りの世話をしてもらっている時でさえ足でそばに来た猫を追いやる動作をする。最初は猫を部屋に入れないようにしていたが義母が猫を追いやる動作も声も心なしか強く聞こえ元気な姿を思い出させてくれる。猫は義母にとって唯一高圧的に出来る存在だ。猫が部屋に入ると追っ払ったり、声を出す義母が嬉しく思えるようになった。猫は叱られても足で追いやられても近寄っている。ペットは愛らしさや感触、従順さで人の心を癒すばかりか知恵が少ないことで人より多くの愛をもち、沢山の我侭や身勝手を受け止めてくれる気がする。義母は猫を叱る事で元気を蘇らせる。ペットは沢山の使命を帯びてこの世に生を受けた神様が下さった人間にとって最高のプレゼントだ。



●トイレ
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生きる事に欠かせない生活空間にトイレがある。高齢化社会になって改めてその存在が大きくなったことは喜ばしい。位置、機能、面積、装飾の面からもっと重要視すべき空間だ。位置については換気と処理から外回りに配置される場合が多い、また外観への窓をつけることで狭い空間に圧迫感を与えない効果も見逃せない。手すりを当たり前とする風潮が出てきていることも進歩だ、水で洗浄する便座は元来弱者のために生まれた機能であり今では一般市場に大きな位置付けをしている。トイレは福祉最前線のスペースといっても差し支えない。人が人としての尊厳を守るために可能な限り自分の意思で行いたい行為の一つであり無防備になる場所でもある。トイレという空間と行為が人の生活や心を自立させるバロメーターになっている。
これからのトイレに求められるものは機能にプラスされた心を守る優しさかもしれない。優しさの演出はいつでも出来るから。



●浴室
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浴室の留意点は段差の解消、手すり、温度管理、移動の設備、水栓の高さ、浴槽でのすべり止め、シャワーチェア―など心と体の健康維持のために重要な要素だ。義母がいつのころからか我が家のお風呂に入ることを拒否したとき近くの温泉に行くことにした。一日寝て過ごす義母が喜んで起きあがり車に乗る唯一の家族の外出タイムだ。耳はまったく聞こえないが小さな子供がいると話しかけ、同年輩の人に話し掛けられると適当に喋っている。楽しそうだ。その後の外食も楽しみにしているらしく普段よりよく食べる。義母にとってのお風呂は私達との家族の確認行為であり見知らぬ人との出会いである。広いこともお風呂に向かわせる要因だ。入浴が心の疲れを癒すためなら浴室の広さや場所は個人によって様々だ。機能や効率、危険防止のみを考えるのではなく入浴という時間をどのように演出するかを考えると新しい浴室や場所がある。それは家族と一緒が良い。



居間
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新築の住宅に居間(リビング)がある。部屋の大きさや家具に加え様々な要望がなされるが何かが足りない気持がいつも残った。くつろぐためのソファーがあり楽しむためのテレビはあったが形だけの居間になっている気がしている。太古の昔人々は火を囲んで暖を取り命を育み、家族が集った。火は生きていた、生きている火を守る場所が集う場所であり、命を育てる場所だった。文明が進み沢山の道具という便利を集め安全な場所を確保した人間は火を守る必要が無くなり安全な場所での生活は人の居場所を拡散させた。プライバシーという名のもと人は自由を得て孤独を増した。生きた火が無くなった居間には人の心の求心力が減退した。居間の求心力が我が家のおじいちゃん、おばあちゃんと家族が考えたらきっと家に魂が入る。そんな高齢化社会が望ましい。理屈ではなく高齢者を中心とした住空間は家族にとってもやさしい、それがユニバーサルな心に繋がる。




台所
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包丁とまな板が消えようとしている台所、自由が利かない体になった人が望んだ事それは自分の手でりんごの皮をむいて食べたいことだったそれを叶えるために様々に工夫された包丁が開発された。私たちは便利という名の元に様々なものを失っている。食べるという行為は命を育むこと、台所はその源だ
インテリアにおいては機能、寸法、色、動線
等が最優先されるがその前に大切にしなければならない事が台所にはある。作る楽しさから始まる食事の時間を大切にすることだ。食事の重要性は単に生理的供給のみならず心を養う行為であることを認識することから始めたい。台所には料理する、食物を保存する、食器を洗う、整理すると様々な行為が集約されそれは生活そのものである。素材を創意工夫する、家族に供し器を洗い明日の命を養う場所。そのキーワードはそのまま介護に当てはまる。そして主役は笑顔の料理人、家族を養い命を育む場所それが台所である。




寝室
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日本の寝室は元来プライベートな空間といった要素はなかった。川の字になるという言葉があるように夜の帳が静寂と安心を与え睡眠という行為を保護した。そしてその空間は寝具を収納することで居間になり食堂になった。寝室という概念が浸透始めたのは公団住宅に始まったLDK生活からベッドの一般家庭の普及があった。睡眠という行為が住空間の中で確保された。プライベートの確保と言う大義名分で瞬く間に広がったが家族が育つ場所である住宅にプライベートが必要であるかの議論はともかく高齢化社会において睡眠の時間にまで人の手助けが必要となった場合の空間は寝室である要素はどこにもない。それは単に日当たりのよい場所であったり居間であったりする。人は人の手助けを必要とする生活にプライベートという言葉が消える。自由と孤独、融合と束縛
人は限りなく我侭な動物なのかも知れない。




玄関
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集合住宅の場合は入口となり、施設になると風除室やホールとなる玄関の役割はなにか。外出のために通過する場所であり安全を求めて帰る扉であり心にネクタイを締めたり緩めたりする場所である。バリアフリー住宅が議論されはじめて玄関の存在がクローズアップされた。それは車椅子で入るための段差の解消であったり、通路の幅だった。スロープやリフト、段差解消の措置がなされることで機能面の解消は可能となったがそれに伴って失われようとしている大切な事がある。それは一瞬の呼吸でありゆとりだ。家が安全の欲求を満たす最たるものであるなら玄関は機能以外の大切な場所としての価値を認識することでもっと有意義な空間作りをしなければならない。毎日の生活の中で一呼吸するための場所であり、けじめの場所だ。
無駄な空間や行為にこそ人は心が休まる時がある。玄関は家人の生きかたが顕著に表れる。人を迎える心を表現できる最高の舞台だ。




階段
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階段での死亡事故が後をたたない。その危険性はプランの段階で予測ができにくい面もあるが単に通路、無駄な空間として捕らえられている存在も否定できない。住宅にも手すりが一般的に普及を始めた事は高齢化社会の恩恵かもしれないが階段を移動に不便で危険な体力の必要とする通路といった捉えたかをするかぎり単に手すりやリフトの移動でその存在は終わってしまう。リハビリ設備に簡単な階段がある。それは歩く動作に昇降を加える事で機能回復を目指す。日常生活する空間である住宅は将来予測できる不便のための改善や安全だけを追求することが高齢化のための準備ではない。階段を健康持続のため危険防止の措置を施しながら体力や注意する神経の訓練の場所として有効活用しよう。現状を否定することより活用する意識が日常を有意義に楽しむコツになる。失って気付く健康や機能より失わない意識で暮らす住宅には全ての場所に光が当たる。



 
●化粧
 

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化粧について人は様々な価値観を持っている。身だしなみ、戦うための武器、仮面等各々の思いで鏡に向かい自分の顔をつくろう作業は女性の義務でも仕事でもなく楽しみな時間かもしれない。自分の人生、主人公として演じるための準備でもある。日常の生活に人の力を必要とする人生であっても主人公に変わりはない。介護の項目に化粧が加わるのはいつのことだろう。入浴、食事の世話、オムツ交換等の介護項目の前に化粧を加えて欲しいと考えることは仕事としての介護を知らないからと言われるだろうか。嫌がる素振りをしながらも化粧を許した義母は人影が見えなくなったときベッドから起きあがり手鏡を見つめていた様子は嬉しそうだった。自分のことがまわりに認められたとき自分の生きる場所も時間もみつけられる気がする。化粧は生きる舞台のための演出であり心を元気にするビタミン剤である。心の介護は普段の日常生活の中に隠れている。



 ●ファッション
  
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高齢者のためのファッションショーが各地で開催されカラフルでおしゃれ、華やかになっている。装う喜びのために時間やお金をかけることは人が人として生きるため最後まで継続すべきだ。高齢化人口の割合からするシルバー市場の有利性が騒がれて久しい。介護ショップや施設の整備は目に見えて変化を遂げている。しかし高齢者用のファッションスペースは相変わらず拡大の兆しを見せない。一日中寝ていることが多い単調な毎日に変化と明日への希望をつなげようとするとき毎日の洋服は手っ取り早いツールであるが高齢者のための洋服は相変わらず片隅に追いやられたコーナーに何年前と変わらない色柄やスタイルで並んでいる。高齢者ファッションショーが単にイベントに終わらないために政府は新しい提案や施設ではなくまず日常の夢を作り上げることが大切だったのではないだろうか。ファッションは寝たきりにならないための何よりの妙薬だ。



●靴
  
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靴の意見を聞くと既製品では間に合わない様々な要望が浮き彫りにされる。そして自身でさえ満足する靴を選ぶ術を知っていないことに気づく。健常者の購入動機の大半はデザインであリ色、価格だ。障害者や高齢者の場合最優先されるのは履き心地であり自分の脚に合うことや重量が必要とされる。靴の機能を最優先した選択の方法だ。次に明るい色が欲しい。きちんとしたところにでかける靴が欲しいとデザインや素材を要求される。ユニバーサルデザインが叫ばれて久しいが商品作りの根底はここにある気がする。機能に加えたデザインや楽しさは全ての人が必要とし平等に与えられる権利。大地を踏みしめるための靴は人が歩くこと進むことの応援隊だ。靴にもっと心配りをすることで物選びの選択眼を光らそう。長年かけて培った靴作りの技術と沢山の要望に耳を傾ける姿勢がこれからの新しい大地を踏みしめるための靴を生み出す。靴は元気の出発点だ。



 
●オムツ    インテリア発かいご 29
体の自由が利かなくなった時の一番の心配はオムツのようだ。生きる事は様々な行為で成り立つが無残にも自力でできなくなることが人としての尊厳をどれほど損ねるか体験しないと理解できない思いだ。近代は紙オムツの普及で人の手を煩わす行為が半減した。先人達は着古した浴衣や木綿でオムツを仕立て、洗濯して使いまわした。汚物を受け止めることと処理することを一貫してすることが介護の仕事だった。煩わしさを半減することの利点は介護者の肉体的精神的な負担を軽くする。手間をかけることの利点を形に現れない思いで強調したいが限度を越すことで負担になり、その限度の基準はどこにもない。産業や科学の進歩が人々の心を豊にする恩恵を受けながら忘れようとしている思いやりの心を昔ながらの布オムツの感触で受け継ぐ。オムツの進歩は新しい産業を生み、新しいゴミを産んだ。オムツで伝えるのはゴミではなく介護する心だ。




●手  
 
      インテリア発かいご 30
手当て、手伝い、手当たり、手合わせ、手荒い等、手は人の体で大活躍する部位だ。心を伝える手段では時には目や口より重要な役割を果たす。家庭介護が困難な一因に手がかかることが挙げられる。それは時間の束縛に繋がり体力的に困難だったり、自由を手に入れた生活では苦痛に変わる。代行してくれる施設や人がいれば簡単に解消できる。手が人と人のコミュニケーションを果たすことを意識すれば生活はもっと潤い楽しいものになる。医師の手は魔法の手、不調な体を診察する手は患者の体に触った瞬間に患者に安らぎを与える。介護も手で触れあうことで心が繋がる。家庭介護は完璧を目指すと苦痛になる。少しづつ手を触れる時間を長くし増やして行くと日常生活に難なく溶け込む。手がかかる介護ではなく手をかける介護を目指せば弱る速度と正比例して手が増え、ぬくもりが伝わる。手は口よりも正直に心を伝えてくれる。手は常に清潔で柔らかくありたい。



 
●脚 
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脚はエンジンだ。常にガソリンである元気を補給し、オイルのいたわりで調整し、常時動かすことで維持して行く。健康を保つためにはどれ一つ欠けても動かなくなり脚のトラブルで寝たきりになる事例が多い。弱った脚は動かす事を止めると簡単に機能をなくする。そしてトラブルは年を重ねるとともに突然やってくる。補助用具を使っての歩行で脚の機能保持に努めることは健康を保つ一つの重要な要素。自己の尊厳を守りながら生きる事のひとつは自分の脚で歩くこと。過剰にいたわり保護するための設備や補助具は不用だが機能の維持をし訓練をするための補助具は多いに活用したい。使用することで活動範囲が広がり運動機能を回復する機器開発は推奨すべきだ。車椅子は人の知恵の産物、どんなに進化しようが血が通わない用具であることも全ての人が理解しなければならない。用具には心と言うスパイスを添えると暖かくなる。これからの福祉の大きな課題。



  
●ハンカチ         インテリア発かいご 32
ハンカチが消えようとしている。使い捨てのペーパーが手軽さと便利さで機能を代行する。ハンカチは文化だ。ポケットやバッグに忍ばせる気配り、様々な場面で活躍する機能性。不意のケガ等で結んだり押さえるためにはペーパーでは代行できない。オムツを交換する際に着古し柔らなくなった下着や浴衣の木綿で作った小さなハンカチはお湯に浸し体を拭うのに最適だ。丈夫で優しい。何より準備した心まで伝わりそうだ。そのまま廃棄しても最後まで役に立った古着はエッヘンと自慢している声すら聞こえる。布には紙では代用できない優しさや暖かさがある。その原点であるハンカチの文化を介護で生かすことは手軽で簡単に出きる。口元を拭うカラフルで楽しいハンカチ。ベッドのまわりに何枚か準備するだけで良い。洗濯機の中で見失いそうな小さな布、ハンカチは介護する者の心を伝える伝書鳩。介護は継続、無理のない優しさは小さなところから生まれる。

かくれんぼ? 早く出ておいで・・・・・・・・

  
●靴下      インテリア発かいご 33
靴下は新しい文化として浸透するのに時間はかからなかった。強い、薄い、ナイロン文化とともに瞬く間に浸透して草履文化、足袋の存在を危ぶいものにした。人々は便利である、手軽であることに最も賛成しそのことが産業を発展させ生活を豊にした。足袋とソックスの違いはなにか。価格、手軽さ、強さ、おしゃれ、どれ一つをとっても足袋は靴下に勝てないが足袋を失う日本人は気がつかない大切なものも失ってきた。木綿の感触と指を分けることによって土に伝わる足の力が強まり日本人の足は健康を保ってきた。ソックスで指を一体化することで指それぞれの力が減退している。人間の健康は素足で地面を踏むことだが現在の環境ではそれも不可能に近い。高齢化時代を迎え、単に目先の消費を促す傾向から受け継がれた文化を見なおし根底に流れる機能や健康面から選ぶ時代がきているのではないだろうか。靴下は誰もが疑問を感じない文明のエイリアンだ。





  
●絵画
 
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美術展に行くと休日などは数えきれない善男善女が集う。家庭においても、施設にしても絵がかかってない壁は少ないくらい絵を飾るということが生活に密着しているが長年埃がかぶったままだったり、季節外れだったり、傾いていたりと恐らく半数以上の人は絵があるから飾るというに過ぎない。80才をすぎて絵を習いはじめたと言うステキなご婦人に出会った。その絵はカラフルで素朴で何より生きていた。絵を描く時間は最高の幸せだと、この年で初めてじっくり見た花があると言われる。教室には最近の最高傑作が誇らしげに展示してある。絵は単に鑑賞するためではなくこれからは自己表現の一旦として多いに活躍して欲しい。描くことでの自己主張と人の作品や景色、物を見る目や時間を養うこと、絵画を選択すること、空間を楽しむことをしてほしい。日常生活の片隅にひっそりしている絵に心を注ぎ描く。些細なことから生活は潤い、生きがいは生まれる。



  
●音楽 
       インテリア発かいご 35
父がいたICU(集中治療室)での事だ。麻酔からの目覚めがなく管に繋がれた体の父の枕もとに小さなラジカセがあって常にラジオの音楽が流れていた。看護婦さんの心配りに感謝、父の病状に暖かい涙が加わった。音楽が人の体や心に与える効用は衆知の事実だがICUでも実践されていた。人は生きるために沢山の宝物を創造した。五感で感じる芸術だ。耳のための芸術音楽はどれほど人の心を優しさや、癒しや平和へと導いたことだろう。その嗜好は人それぞれでありあふれんばかりの音とリズムで成り立っている。素朴な民謡や子守唄からロック、オペラなど人の人生もどこかに属しているのかもしれない。全ての人の人生が一つのように1人1人の音楽もまた違っている。音楽療法は与えられるものではなく選ぶものではないだろうか。看護婦さんのラジカセは父がある時演歌に反応したからだそうだ。誰もが好きな音楽、好きな一曲を言える事も生きるための宿題だ。



  
●風 
         インテリア発かいご 36
室内に風が消えた。高温多湿の日本の住環境に自然素材の多用と風の力は必須だった。空気の流れによって湿度を調節し、細菌の繁殖を防ぎ自然の声を届けてくれる風は自然と共存するための知恵だった。現在の住環境は自然との隔離から快適を求めようとしている。技術と産業の発展で有効な成分も風も機械的に作りだし快適な住環境を築いている。一年中温度も湿度も変わらない快適な空間が文化であり、発展だと誰もが信じて疑わない。しかし人々は心を癒すために自然に身を任せることを止めようとしない。暑さも寒さも楽しみ、風に耳を傾け昔話を聞きたがる。住空間に自然の風をなくした人々は時間やお金を使って風を求めてさまよう。快適な介護の空間に窓を開け早朝の小鳥のさえずりや夕方の騒音を風とともに楽しむ時間を作れたら良い。人の心が帰るところは自然の懐、自然は楽しむためにあるのではなく生きるためにある。風は全ての人生の応援歌だ。



  
●畳              インテリア発かいご 38
畳がインテリアのアクセントや演出の素材として扱われる現状は危惧しなければならない。価格、便利、機能を旗印に発展した産業や文化に溢れかえる物の陰で沢山の貴重な財産を失おうとしている。足の裏から伝わる素材感の違いや畳のかもし出す癒し効果と空間の開放感が人の心に及ぼす影響を証明する学者はいないが従来の畳が持つ吸湿性、弾力性、素材感は早急に明確にし高齢化の住宅に、日本の住宅に改めてみなおしたい。高齢化において歩くことへの不安から段差の解消を叫ばれるが歩くことの訓練や楽しむこと、効果は表面に出ない。室内において畳こそ素足で歩くことができる素材であり空間だ。床より優しく暖かい。日本の伝統は単に受け継がれただけのものではない。伝えるべき理論や効果や必要性があるからこそ先人は様々な思いを込めて守ってきた。高齢化を迎えようとしている今の時代が日本の知恵や文化、そして畳を見なおすチャンスだ。



  
●ぬいぐるみ       インテリア発かいご 39
年を重ねた成人がぬいぐるみの人形や動物を大切に可愛がると少し驚かれる。かわいいものは子供のおもちゃという概念が人の心のどこかに潜んでいるようだ。ぬいぐるみの質感から得られる柔らかさ、暖かさに加え
抽象化された形の愛玩物は子供のみならず大人の心を手と目で癒してくれる。かわいい物をかわいいと素直に愛しむ心を出すことは生きる事を楽にする。我が家も義母の誕生日にはぬいぐるみの動物を選んでいる。受け取るといつもにこにこしてくれる。そして必ず部屋の片隅に飾ってくれる。ベッドの傍らにあるネズミや兎、猫のぬいぐるみは義母だけでなく訪れる人も「かわいいね。」と言いながら会話が弾み触ってくれる。介護の時間に失いがちなものがあるとすれば無駄な時間や物ではないだろうか。限られた空間の中で必要とされない遊びの心を増やすことで少し楽に時間を過ごせる。ぬいぐるみはもの言わぬ優しさで大人の心も癒してくれる。




  
●指輪           インテリア発かいご40
人は装飾品と称して様々な物で身を飾る。生殖行動の一つ、見栄、無意識の欲求表現、古来の風習等その真意はそれぞれだが不必要な必要的存在といえる。指輪もその一つだ。シミや皺の手に輝きも形も変わらず光りつづける指輪は装飾という意味合いを超えた深みを増した存在になっているようだ。在りし日の夫婦の絆、出会いの記念、その存在は大きい。ベッドに寝て過ごす義母の指にも指輪が光っている。家族さえその存在を忘れている指輪を一人で指から外し、納める姿を垣間見てベッドでの長い一日を慰めてくれる過去の思い出がどれほど貴重で生きがいになっているかを知らされる。介護に関わると当面の対処に追われともすれば生き様や過去の思い出を疎かにしてしまう。指輪一つに込められた思いでの宝を引き出す事で優しい言葉より、手厚い看護より心を癒す薬になるかもしれない。人としての輝きを残す指輪一つを大切にする事も大切な介護だった。


 
●髪            インテリア発かいご41
女性の髪型は年齢と共に様々な変遷を重ねる。時代の流れと共におしゃれの要素が加わる年齢がどんどん下がって現在では小さな子供までおしゃれを意識したスタイルを楽しんでいる。豊な社会の象徴だろう。車椅子の高齢者、ホームの高齢者に見られる髪形にショートカットが多い。断髪というのだろうか。洗髪や手入れが簡単な事もあるが制服のようなその形は少し異様だ。手がかかることを省くことは必要だが個性を無くする形は出きれば避けたい。以前は美容院でパーマをかけていた義母の髪は束ねて三つ編みにしてアップにしてピンで留める髪型にした。人の髪を触ったことが無い自分にできる唯一のヘアースタイルだ。伸びた分だけ切れば良い。毎朝櫛で挿げてピンで留めることを繰り返している。これがなぜか義母にとっては食事よりも幸せらしい。気持が良いと喜ぶ。時間を省く反対のことにチャレンジすると心を形に変えられる。そんな気がしている。



●歌           インテリア発かいご42
カラオケという遊びは全ての人を主役にしてくれ世代を超えて楽しめる。人前で歌ったことが無い高齢者でも知っている歌が歌われていると同じように口ずさむ。歌は不思議だ。音楽を聴くことで心を癒し慰めえてくれ、
歌うことで楽しさと誇りをもらえる。リハビリ中だった父と親戚を集いカラオケに誘ったことがあった。人前で歌など歌ったことがない父は歌うことを拒否していた。ところが同年代の叔父や叔母達が歌うのを聞いて口ずさみ始めた。父の歌える歌をリクエストしてマイクを渡すと小さな声で歌いはじめ周りの応援もあって少しづつ声も大きくなった。歌い終わって拍手をもらい照れくさそうにしていた父の顔は亡くなった今でも忘れられない。施設で仲間と一緒に歌っている高齢者の笑顔、手拍子しながら参加している人さえお互いの存在を認め合う時間だ。歌は自己表現の手軽な方法であり、生きることに元気と心のビタミンをくれる栄養剤だ。




●夢             インテリア発かいご43

人は夢を持つ。身近な小さな欲求から将来の目標が夢となり生きる目標になる。夢や希望という言葉は前向きで元気の象徴だ。老いることは夢を無くすことも要因だ。体の自由が利かない。病気と戦わなくてはならない。数えることが出きる生への限界。様々な要因で夢を見ることをあきらめさせる。「生きとっても迷惑をかけるばかりじゃ。」気丈な義母がそう言うと悲しい。介護者に向かってそう言う言葉を吐くべきではないと感じた。しかし夢を無くした人間が生きることは悲しいことのなのかも知れない。介護者にとって明るく過ごしてほしいというのが願いであっても投薬のように個人にふさわしい夢を見つけ元気で明るくありつづけてもらうことは難しい。今日の出来事、趣味、明日の仕事、ささやかな日常の中から自分の役割を見つけ存在を確認することから夢は広がる。寝たきりの高齢者にどんな夢をプレゼントするか見つけられずに焦る介護者もいる。



●愛            インテリア発かいご44

居宅介護という言葉ができた。高齢者が家族の中で過ごし家族に保護されることの幸せを施設で過ごすことへの差別化のように思われがちだ。家族や家庭に象徴されるものの一つに愛がある。夫婦愛,家族愛、与える愛、許す愛,無償の愛、どの言葉も甘美で人の心を酔わす。そして愛は家庭だけでなく何処にでも見つけることが出きる。家族で介護することを愛と置き換えることは非常に危険なことだ。愛は全ての人が要求する権利があり求めている。保護される人のためだけではない平等だ。介護という状況で無償に無限に与える心や労力は愛では補えない。愛も体と共に疲れる、愛の発進元は同じ人間だ。泉の如く無限に涌き出るものではない。疲れた体や心も愛を求める。介護を愛や情で処理はできないために人々は画一化しマニュアル化しようとした。しかしそれだけでは人の心は満たされない。愛が涌き出る環境とゆとりを整えることが先にあるべきではないだろうか。


  

●仕事         インテリア発かいご45

高齢になる事で失うものはたくさんある。力、健康、意欲、仕事。仕事を通じて関わった社会との接点を失うことは人生の大きな転機だ。生きがいの模索において社会的活動の場所を提供することが福祉政策の一つとして取り上げられるがそのための組織や場所が形ばかりの福祉になっていないだろうか。経済社会においては高齢者だからといって一まとめにした雇用はしない。個人の能力において活用され個人の努力や研鑽によってのみ継続される。能力において社会的に認められることこそ高齢者の立場を人として受け入れ認める社会になる。人が人として最後まで貫くことが幸せなら老人施設、シルバーで福祉を謳うより社会の受入体制を見なおし整備することを優先すべきだ。福祉も少し遠回りした方法で整備する必要がある。介護の方法を討議する前に介護の必要ない社会を構築する事が必要であり、仕事は個人の存在を認識できる心のビタミン剤だ。



  

●時間        インテリア発かいご46

先が見えない介護に関わってのストレスの要因に時間の長さの違いがある。朝の同じ30分の中身をぎゅ―ぎゅ―に詰め込みたい介護者と詰めこめない高齢者とのギャップ。時計の針は同じように動く、力の差なのか立場の差なのか、埋まらない。詰めこむ中身はなんだろう、しなければならないことがどれくらいあるだろうと考えた。高齢者の時間に会わせると時間が足りなくなる。焦る気持を押さえて義母の時間にあわせてみると仕事は残るが少しだけ顔の表情が柔らかくなる。毎日の「ありがとう」の言葉も嬉しそうだ。残した仕事はまた明日すれば良いやと自分に言い聞かせ何故か介護のこつを掴んだような悟りの気分になる。介護はからだの健康維持を原点に忘れてはならないのが心の健康維持だ。相手の時間に会わせることで残る仕事が心を優しくするなら明日に残せばいい。同じ長さの時間を楽しみ明日のエネルギーを残す介護が継続できお互いの心を癒す。

  

●お金           インテリア発かいご47

今年お祝い金はなかったの?と義母が尋ねた毎年敬老の日には赤い熨斗に入った幾ばくかのお祝い金が支給される。今年は中止になったようだ。部屋から出ることはなくお金を使う事もない義母にとって不必要なもののようだが毎年楽しみにしていたようだ。テレビではキャッシュレスの新しい試みが盛んに報道されている。近未来には財布がなくなる時代が来るのだろうか。使わなくてもお金を喜ぶ気持は、お金は単に品物やサービスに交換できるというだけでなく沢山の夢や可能性を与えてくれる。便利を求める余り省かれる伝統や習慣は同時に夢をなくする結果となる。福祉、介護と人々の幸せを形にする行政のなかで守らなくてはならない砦があるとすれば伝統と同時に無駄と思われる夢や希望の目を摘まないことだと考える。部屋での生活だけの義母に毎月お小遣いを渡すことが夢や希望を添えることだと気付かされた。お金の効用は何よりの元気薬になる。

 
●子供            
         インテリア発かいご48

子供と高齢者と何処が違うのだろう。子供のようなものだからと介護の日常を納得させようとするが介護には楽しさを見つけられない、夢がない現実がある。返ってくる言葉で希望をなくし,疲れが増す現実がある。使命感だけではできない世界がある。しかし、施設のや福祉の容認は何時でも逃げられるゆとりを与えてくれ、ありがとうの暖かい言葉は子育てとは違った充実感を得る。人と人との触れ合いを深める事ができる。介護の入り口は不安の中で苦痛から始まったが年数を重ねるとゆとりや関わりの深さで子育てには得られないものを得るような気がしている。子供のほうが可愛いのにと憎まれ口を言っていた日々から子供に与えられた貴重な体験だと思える日まで随分と時間がかかってしまったが人の一生の同じ線上にある始まりと終わりを体験することは人として貴重な体験だ。子育てが幸せと共に訪れるように介護もそうである未来が望ましい。


●気持            インテリア発かいご49

習慣となっている毎朝の入れ歯磨きだが時々「あー気持が良い。」と聞くとありがとうの言葉より嬉しくなる。気持を言葉にすることは難しい。気持は伝わらない。介護に関わり最初に受ける試練の一つだ。お互いの気持が錯誤してストレスが生じる。ありがとうの言葉一つが感謝の表れであったり,他人行儀であったりする。言葉は発する側と受け取る側の境遇や立場で様々に変化する。介護で口喧嘩をする親子がうらやましいと思うことがある。世話をしてもらうという気持が根底にある関係での言葉はうわべのやりとりに始まる。これは介護される側にとって非常に苦痛ではないかと言葉に出せないジレンマに襲われる。ありがとうの言葉が空しく聞こえる。装飾された言葉ではない言葉が行き交うことが介護の基本なのかもしれない。毎日同じ事を繰り返すこと,同じ時間を重ねることで少しづつ心を溶け合うしかないのかもしれない。介護は継続で気持が伝わる。



●障害             インテリア発かいご50

寝たきりにならないための生活にとっての障害は日常生活に適当な運動と脳への刺激を与えてくれる。義母はベッドでの生活から近年脚力が弱っているがなんとかトイレに歩いて行ける。安全な環境には床は勿論,手すりに加え障害物のない動線の確保は当然と思われているが我が家では敢えて障害を加えた環境を作っている。通路に大きなゴムの木を置いているので通る度に避けて通らなければならない。勿論ぶつかっても怪我をする状態ではないが大きな葉っぱが体に触る。手すりの途中に花を飾っている,避けなければ花が折れる。そしてその障害も時々場所や大きさを変えている。観察するとちゃんと動作で対応している・時々邪魔になると文句を言っているが聞くことも楽しい。高齢者の過剰な世話は機能を失う要因になる。お互いが継続する関わりを構築するために日常生活を機能や思考の訓練に障害のある生活を楽しむゆとりも欲しいものである。



●介助             インテリア発かいご51

介護に介助は必要不可欠な行為だ。我家では近くの温泉で入浴介助をしている。身体機能をいかに維持しベッドから離れる生活を継続させるかは介助1つで可能なことだ。高齢になると動作の多様性も速度も極端に衰える。しかし機能の灯火がわずかでも燃えている間、介助は可能な限り避けるべきだ。公衆での入浴介助は三者の目が入り、じっと見守る間にも「助けてあげたら。」と声がかかる。簡単な介助の行為がその後の機能を失うことは明白だ、このことは体験しなければ理解できないし、介助に時間や効率を考えたら出来ないことだ。簡単な動作であっても毎日繰り返すことで機能を維持し続けることができ、見守った時間が無駄ではないことを実証し、世間に認知されなければ今後も寝たきり人口を増やす一端となる。行き届いた介助が善意と捉えられる現実があるだけに人としての日常生活のありかたを改めて認識する必要がある。介助は薬でもあり毒でもある。




  

●がんばる      インテリア発かいご52

がんばるという言葉は励ましで暖かい言葉に思われている。「もう少しがんばろうね。」「ハイ、がんばって」と声をかけ励ます。この言葉が受け取る側にとって何よりも苦痛になっている事がある。人の手助けを必要とする境遇を受け入れる手段としてまず自身を納得させる必要がありその為に弱さや無力を演出する場合もあれば、無力感から自信を喪失して励ましの言葉が苦痛になることが多々ある。励ましの言葉をもらって素直に喜べる心は幸せだ。人は人の気持に踏みこむことは出来ない。肯定的な言葉が前進で否定的な言葉が後退と決め付けられない世界が介護にはある。「がんばらなくてもいいのよ」の言葉で救われる気持になる。改めて言葉の力や言葉の意味を熟慮する必要がある。介護に教科書はないが人の心の痛みや悲しみを理解することの難しさを教えてくれる。介護を通じて受ける人生勉強は深く遠いが受け入れることで心が磨かれる。



●買い物        インテリア発かいご53

ベッドでの生活が長くなると誰も気付かない間に外に出る生活を無くしている。グループホームなどでは積極的に買い物に誘い楽しみとしている日常があるが家庭介護の場合本人の意見を尊重するあまりベッド以外の時間を軽視する傾向にある。我が家も例外ではなく買い物も散歩も時間の経過とともに興味を示さなくなった。店に行っても車の中で待っている状態が続くと次回からはその予定は無くなる。散歩も出来るだけ避けたい気持が両方にある。暖かく優しいはずの家庭介護の陥る安易な日常を施設では慣習化することで機能や緊張を維持する可能性を含んでいる。買い物は家庭介護の場合欲しいものを短時間に供給できることが買い物意欲を無くしている。買い物と言う生活や自己実現の意欲を無くさない介護がこれからの家庭介護に求められる大きな目標だ。生きることは人や物を求めること。与えられることではないことを知らなければならない。




●生きる        インテリア発かいご54

「生きていても迷惑になる。」と言われるとそんなことは無いのよと答えながら生きていることの悲しさが伝わる。命は大切にしなければならないとどんなに言い聞かせても長年の介護生活に迷いは出てくる。心や体に負担を感じ,負い目を感じながらの人と人の関係は楽しくもなく夢も無く希望も無い。そんな現実と事実を受け入れる事で初めて生まれる関係も生きることの意味も生まれる。生きる事の意味は死ぬときにわかる気がする。介護者にとっても無くして初めてわかる命の尊さもある。義父を看取って改めて義母の介護に取り組むと介護が日常の世話や気配りの量ではなく,自分との戦いであることが少しづつ認識できる。人は人のためには生きられない。人を助けることも出来ない。人は自分のために生き,自分の命を守り育てるために生きる。生きることの行程に介護と言う仕事があった。介護と言う試練があり自分の命を育てるチャンスをもらった。



●こころ        インテリア発かいご55

先が見えない介護の生活が続くと人の心の様々な側面が見えてくる。高齢になり単調なベッドでの生活の毎日で失うもの1つに喜怒哀楽がある。笑顔が少なくなる。怒りが薄れる。子育てのように言葉や形だけでは癒されない時間が重い。感情が心を表現する手法の1つだとすると心が失われていくのだろかと不安になるが失うことで静かな時間を過ごせる生きかたもあるのかと教えられる。心を育てることより心を癒し、維持することが大切になる介護の毎日の手法は子育てにない難しさがあるように思う。猫が嫌いな義母は自分の部屋に猫が入るとあからさまに感情を表す。ベッドに座り足で猫を追っ払う動作をする。何故か可笑しくもあり,嬉しくもある。美味しいもの、楽しいこと,喜ぶこと、何を提供しても表情を変えない生活に嫌いな猫が変化を与えてくれる。心とは不思議な生き物だ。介護は自分の心と向かい合う機会を頂き,人の心の不思議さを体験する。



  
●食事           インテリア発かいご56
ベッドでの生活では一日三回の食事が生きる証であり楽しみになる。毎回の食事の量が評価を顕著に表し残された食事が少ないと嬉しい。食事にばかり時間を掛けられない現状で毎日のトレーに食事以外の演出をする知恵も出てくる。庭の花を一輪添え、コンビニの弁当に抹茶とお菓子を添えたりトレーをランチョンマットに変え,食器を変えるだけで手抜きも栄養不足も補える。栄養を考えることは大切だがいかに楽しく食べられるかを考える事も重要だ。栄養はからだの健康を維持し,楽しさは心の健康を維持する。高齢者の食事はどちらも同じように命をつなぐ糧となる。食事は味、形、色彩と環境が大きく作用される。毎日の変化と演出が命に活力を与える食事へと変身する。文字や数字で提供するだけではなく遊び心の食事を提供することが大切であり心を伝える介護に繋がる。食事は一日三回の舞台だ、お皿に表現する心は介護者が生きてきた人生でもある。



  
●誕生日         インテリア発かいご57
一日の生活が一週間,一ヶ月,一年へと繋がる事が生きる事。一年の命の中で特別な日が誕生日だ。誕生日のお祝いを精一杯の思いを料理やプレゼントに込める事で喜びや感謝を期待するが,形は介護者の自己満足かも知れない。最近はプレゼントの包みを開けることもしなくなった。目の前で開けて見せるとありがとうという言葉は聞けても本当に嬉しそうでもない。老いるという事は感動をなくすることかも知れないと思いながら年々誕生日のお祝いが小さくなっているが記憶が薄れる日常で不思議と自分の誕生日ははっきり覚えている義母がいる。自分の年を数えふと漏らす言葉に誕生日と言う一年に一度くる日を大切にしている心が隠れていた。自分の人生の主役は自分だけ,義母の人生を主役として尊び称える日の誕生日は介護者にとっても新たな出発として祝い,忘れない日にしなければならない。命を大切にしてくださりありがとうと90年の命を称えよう。




  
●気力          インテリア発かいご58
元気、勇気、強気,弱気,人の健康状態を表現する言葉に気がつく言葉が多い。気力に表現される「気」は見えない,計れない人の命のバロメーターだ。老いるという事は単に体力の低下だけでは判断できない。体力の低下より重要なのは気の低下ではないだろうか。元気、勇気、やる気等の前向きな気力が低下することが老いることに繋がる。高齢者であっても気力が充実している人は元気だ。医学的健康維持より気の充実を継続する事が重要になる。介護に必要なものは薬でも介護保険でも福祉でもない。友人、家族、自然、趣味、仕事等共通していることは社会性と個人の尊厳。全ての人はオンリーワン,ただ1つの個を社会、家族が認め尊重することから始まる。この介護の実現が21世紀の高齢化社会に課せられた課題だ。施設やサービス、制度や政策で形作る介護ではなく一人一人が個を尊厳する事で気力の充実を目指す介護こそ全ての人類に与えられた平和への近道。



  
●過程          インテリア発かいご59
介護は健康維持のため、快適生活のため、手助けのためと人が人と関わり体に触れ、言葉を交わし作業をする。介護者にとって自分の生活維持の上での介護は時間との戦いであり精神的負担は大きい。毎日同じことの繰り返しが苦痛になる感情から逃げ出すことは出来ない。家庭介護は介護者が自分との戦いの中で自らを管理し精神的ケアーをした上で継続が可能になるし家族の理解や協力は必須の応援である。介護の毎日で介護者は介護の結果ばかりを追い求めることに終始し介護の過程を疎かにしていることを忘れる事があり作業を終えることを介護の結果だと勘違いする時期がある。そばにいて欲しいそれだけの要求も介護にはあった。孤独と不安を和らげる介護は快適な環境や健康管理だけではなく、共有する時間に流れる言葉や心の触れ合いにある。介護はシステム化できない。人生キャンパスの仕上げだ。過程を疎かにしては良い絵は仕上がらない。




●ストレス          インテリア発かいご60

ストレスは健康生活において諸悪の根源のように扱われる。介護においても双方のストレスを最小限にとどめることが継続や精神的な支えになることは否めない現実だ。高齢者のストレスを無くする介護が体や心の健康に重要であると励めば励むほど家族介護にとって介護者へのストレスを増すと言う現実に直面する。高齢者の笑顔や健康が介護者にとって幸せであり使命であるとする道徳的な正しさで毎日が過ごせるほど介護は美談でも綺麗事でもない。そしてストレスと言う厄介物を無くすることは不可能だが高齢者にとってある程度のストレスは健康維持や生きる事へのエネルギーとなり必要なものでもある。生活習慣の変化によってのストレスは考える、動作を変えるという新しい刺激となって感情や体を動かす力となる。短調になりがちな日常と夢を失いがちな生活に適度なストレスが香辛料の役割をする事で引き締まった日常の演出ができる。



 

●老いる        インテリア発かいご61

介護という関わりで人の生活に密着すると老いるという現状を垣間見る。人の寿命という現実を体感し認識することができる。昨日できていたことでも夜が明けるとできなくなる事、恥じらいや喜怒哀楽を無くして行く過程、細くなる食欲、全ての人が同じ様子ではないにしても命が細くなっていく過程は止められない。しかし人が老いるという事は幸せなことではないのかと考える。他人への関心や物や世情への関心が薄くなる過程は神に近づく心でもあるように思う。顔から怒りや憎しみの表情は無くなりあどけない子供のような笑顔を蘇らす。死を迎える準備としての老いは人間にとって最も幸せな形なのだ。老いの形を人生の総仕上げとしてどのように演出をするかは人の生きかたそのものであり人は老いるため、死ぬために命を与えられたのではないだろうか。介護者が人の命を彩る最後の助演者であれば介護者の命もより鮮やかに輝き新しい命を照らす。



 

●思い出        インテリア発かいご62

老いや人の手を借りるという気持は言葉には表現できない。理解できることは自分が介護される側に立ったときだ。思い出や家族は最後まで大切なものだと拘ることが優しさでもない。老いて行動も可能性も少なくなって行く現実で人は様々なものを棄てながら生きていることもある。元気なときはあれほど拘った家を守ること、趣味、友人達を遠くへ押しやりながらいきる。嫁への意見が無くなって感謝の言葉が出てくる。周りの家族にとっては扱いやすさへと変化している様はそばで生きざまを見つづけていた家族にとっては悲しくもある。元気な言葉を投げかけていた頃の思い出を懐かしがるのは周りの家族で高齢者にとって思い出を捨てることも新しい命の燃やし方のように感じられる。顔の表情が変わる、ものへの執着がなくなる。人の手を借りる新しい生きかたで人は最後の人生勉強をするのかもしれない。思い出という荷物を棄てて歩くために




●おはよう        インテリア発かいご63

介護の一日は「おはよう。」で始まる。毎日様々なおはようがある。眠っている時小さく、目覚めている顔に元気よく、憂鬱な気分で冷たいおはよう。言葉で始まる触れ合いは髪を梳かし、歯磨き、下着の交換、洗顔とおはようの色合いで一日の介護の色が決まる。人生の始まりもおはようから始まった気がして毎日新しい始まりと言い聞かせる。挨拶という習慣は言葉の宝石だ。毎日投げかけるおはように返事は無いけど心の奥底に薄く小さく積み重ねられいつか大きくなった時、人の心は動くのかもしれない。見えないトンネルの中をさ迷う日々ではなく薄い紙を積み重ねる介護であるなら重ねることでお互いの心に形となり輝くであろう。現実をまっすぐ見つめ少しのロマンで装飾すれば言葉1つの色が変わる。おはようで始まる一日がおやすみで終わるように人の終焉も静かにおやすみで終えたい。介護は人生の縮図だ。それを体験できる今をまっすぐに生きよう。

 



●ギャラリー       インテリア発かいご64

個性のように介護の形態は様々だと推測されるが家庭介護においてはその個性が全てで形成される。一日のほとんどをベッドで過ごしている義母の入浴は近くの温泉だ。一般客に混じっての入浴だが熱い寒いと大きな声で騒ぐ、時には裸で脱衣場に横になってしまう。介護する側も経験が重なると慌てず黙って見守ることで対応しているが不思議なことに他の入浴客がいない時は騒がないことに気がついた。騒ぐと注目してくれる人がいる、声をかけてくれる人がいる、家族以外の人の心を自分に惹き付ける行動ではないかと気がついた。人は社会で生きてきた。生きることの1つの証が認められることであるならきっとベッドでの生活をしている状況でも生きる応援団、ギャラリーが必要なのだ。介護の世界は閉鎖的になりがちだ。家族以外との接触は自分が自分である証、生きている証をもらえる貴重な体験だった。高齢者に必要なのはギャラリーの拍手だった。



●孝行         インテリア発かいご65

福祉は全ての人に平等や便利、幸せを要求する権利を与えようとしている。そして沢山の心を無くそうとしている。家庭介護を試みると様々な選択が可能であることに気づかされる。入浴1つにしても電話一本でサービスが受けられ介護する側の負担を軽減してくれる。一つが当たり前になると人は次の便利を求めようとする。こうして福祉は人々を束縛や苦痛から解放し一時の安楽を提供してくれる。これが人々を幸せにする福祉の一面だ。人の幸せは安楽の中にのみ存在するのか。束縛や労働や人のために身を呈することに幸せは見つけられないのかと考える。孝行という言葉が世の中から消えようとしている。介護を必要とする親に感謝の気持で仕える事など無意味な世の中になりつつある。親と共に老いと戦う時間は孝行以上に我々に満足と人としての道を示してくれることを知るチャンスでもある。親を他人の手に委ねボランティアに勤しむ世の中は不気味だ



●羞恥心        インテリア発かいご66

羞恥心を忘れることが年を重ねるバロメーターとして捉えられる。人の手を煩わせる身体状況になったとき最初に戦わなければならないのは己の羞恥心かもしれない。義理の関係においての介護にも同じように羞恥心を根底に様々な葛藤がある。表面に現れる現象に思いやりがあれば綺麗に心地よく過ごせる関係が時として反対の形をとろうものならお互い日々ストレスを重ねる結果となる。その根底に羞恥心があることに気づくことに随分と時間がかかり、羞恥心を薄めることにもっと時間がかかったような気がする。羞恥心は人間だけに与えられた美徳かもしれない。生まれた時にはなかった感情を人として成長するにつれ育て社会人として生きられる。そして最後に羞恥心を少しづつ昇華させまわりに身を委ね他人に感謝する事を教わり人としての最後の学びは終わるのかもしれない。羞恥心は厄介な砦ではあるが砦を持たない人間が増えると人は動物と化す。

マリコさんのホームページです。
『床ずれナース』のサンエイ社でも、マリコブランドの商品を取扱うことに致しました。
お互い、ライバル商品ではありますが商品のコンセプトなど共通するところがあります。販売協力などしながらマリコさんの活動を応援したいと思います。
お問合せは 
info@tokozure-nurse.com
kikiwebで私たちの取り扱う商品が、特集されたのがご縁でおつきあいが始まりました。
オフィス ナカガワ(サンエイ社)が、応援するタウン紙のホームページです。
一度遊びに来てください。
泣}リコとサンエイ社のタイアップホームページです。
新しい仲間が増えました。
和歌山県新宮のコミュニティサイト 居ながらに熊野詣が出来る。

制作 オフィス ナカガワ (サンエイ社)

このホームページはマリコさんがかいごやコムさんへ寄稿されていた
コラムをコラム集としてオフィス ナカガワが編集したものです。